はじめに
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第4回セミナー
佐久電話局での日航機事故対応と教訓(詳細報告)
―携帯電話はこうして生まれた―
日航機墜落現場の御巣鷹山での救助活動の状況
講師:佐藤 修三氏(1971年電子工学科卒)
事故発生1985年(昭和60年)8月12日(月)PM6:50
日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行
同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)
に墜落した航空事故である。
乗員、乗客524名で、520名が死亡した世界最大の航空機事故である。
事故当時、佐久電報電話局長の任にあった講師の佐藤修三氏は、目まぐるしく変わる墜落地情報に翻弄されながらも、
的確な判断とリーダシップを発揮して、大混乱のなか困難を乗り越えて通信手段を提供してい行くことになる。
1 事故対応模様
1.1 事故発生
当日は頭が重く、17:30には帰宅する。まだ日は高く、
夏休みで我が家に泊っていた甥姪二人と私の息子 寛太郎、幸之介、泰三を連れて近所のグランドで野球の練習をした。
18:30ごろ帰宅し、夕食後NHKのニュースを見ていた。
19:20ごろ「日航機行方不明」の字幕スーパーが入り、
驚きとともに何となく事件に自分が関係している様な一種の緊張感を感じた。
19:45ごろ突然NHKは通常番組を中断し、日航機事故特別番組に切り替えた。
加福機械課長から「佐久市付近に墜落」との報道あり。至急屋上にて調査します」の電話があり、
急いで着替えて出局した。(20:00ごろ)
佐久電話局の受け持ちエリアは赤色の破線で示されている範囲。
東は群馬県境、南は山梨県境。北は小諸、軽井沢、西は八ヶ岳連峰。
東京都の半分ほどの広さ。
1.2 対策本部の設置
長野支社の深沢保全課長から電話があり、
「橋本、佐藤の両調査員を連絡要員として派遣したので、佐久局も準備してほしい。
今晩中に100本程の臨時電話設置になるかも知れない」と連絡を受けた。
加福機械課長より「2F試験室奥に、対策本部の設置にとりかかった」
との連絡を受けたが、至急次長室に変更するように指示した。
次は社員の動員である。都築君(労厚係長)から、
分会執行部が市内で懇親会を開催しているとの連絡を受けた。
そこに連絡し各課必要人員を呼び出すように依頼。盆で帰省中の、
児玉線路課長、下条営業課長には連絡がついたが。
北沢次長、村山庶務課長には連絡が取れなかった。
このような中で20:30、次長室に“日航機墜落事故対策本部”を設置した。
1.3 初仕事は、資材とガソリンの手配
20:30 計理課長に電話機在庫数の把握を依頼、
都築君に隣の相馬ガソリンスタンドを開けてもらい38台の全車両を満タンにするように指示。
ヘリコプタ0-から暗闇に炎上する山林の様子がTVで実況中継されていたが、場所が特定できていない。
TVでは、暗闇の中でいく本も筋状に燃えている山林を、ヘリコプターが実況中継。
場所は不明。北相木村の御座山、北斜面か?との報道あり。
1.4 臨時電話の申し込み殺到
21:00ごろ、報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到
地元の朝日新聞坪井記者より、北相木村、
御座山荘に臨時電話を10本、FAX1台設置の申し込みを受ける。
神頭副課長に、場所と電話線の空回線を調査させる。
このころから報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到する。
御座山荘前には、空回線1本との連絡。北相木村役場では11本しか空がない。
22:00ごろ、北相木村役場に向けて、
TZ-403(400Mhz帯の非常災害対策用電話で24回線が確保できる。
北相木村は、佐久市の東南方向、佐久平を南から北に流れる
千曲川とはほぼ直角に東に伸びた谷間にある。
このため、佐久本局からは、直接電波が届かないため、
1班は中継基地になる八ヶ岳の中腹へ、もう1班は北相木村村役場へ)の出動を要請した。
上部災害対策本部に 衛星中継車は近所にいないか?問い合わせをしたところ
3台(TV用2台、電話用1台(電話108回線用)あるとの連絡を受ける。
電話用は、21:00ごろ伊豆を出発し、甲府へ向かうとのこと。(22:10)
1.5 臨時電話開通
第1グループ(杉山グループ)は臼田警察へ出発。第2グループは北相木村へ、
第3グループは御座山荘へ、第4グループは御座山荘に向けての線路(回線)増設工事に出かけようとしていたが、
第4グループは待機させた。
手薄の中、他の臨時電話の申し込みが殺到しそうであったからである。
2:00ごろ、TVは“墜落現場は北相木村ではなく、南相木村の御座山南斜面”へと放送内容を替えた。
朝日新聞社に「本当に御座山荘でよいか?」との確認をした。
OKとのこと。但し、回線がないので、しばらく1本で我慢してほしい旨も連絡。
日付が変わり13日00:00過ぎに北相木役場を中心に臨時電話が続々と開通し始めた。
1.6日本航空事故対策本部の設営
13日 1:00ごろ、TV報道を見ていた職員から、
「日本航空が乗客の家族を乗せたバスを小海町に向けるという情報があるとの報告有り」、
小海町のどこなのかが不明のため、小海の局長に調査依頼。
(佐久電報電話局の下部組織として、営業窓口のみを備える臼田局、小海局の2組織がある)しばらくしてから、
“小海総合センター”との情報が入った。
小海センターは、北相木村と南相木村の分岐点。“やはり南相木に墜落か”と観念
2:00ごろ、日航本社の部長より、
「東京からバス5台、大阪から2台、乗客の家族を乗せ出発するので、
小海総合センターに臨時電話30本、できればプッシュホンを設置して欲しい」との要請を受けた。
小海町は国道141号から、北相木村、南相木村、両村へ行く分岐点に当たるため、
“やはり南相木に墜落か”と観念すると共に、今後の予想も付かない作業を思うに、
ついに来るべきものが来たと覚悟を決めた。
小海総合センター前の空回線は調査の結果15本しかなく、日航依頼分と、
今後予想される報道関係分と合わせるとかなりの不足になると思ったので、
佐久、小海間にTZ-403により24回線確保の為の出勤を要請した。(3:45)
1.7苦情対策
AM1:00ごろ、報道関係から臨時電話不十分との苦情が相次いだ。
・ 回線が足りない。
・ 自社専用の電話がほしい。
・ 本社に申し込んだのにつかない。等々。
読売新聞本社の福田氏からは、「局長を出せ」と言われ、
小生から「当局社員は、徹夜で電話の設置に尽力している。
又、回線も山間地のため十分に無い。各社公平に扱わなくてはならない」と説明し、
最後は「ご苦労さんですね」と言葉を交わして受話器を置いた。
1.8南相木村と通信衛星
北相木村、小海町の2箇所で無線設備TZ-403は使い切った。
墜落場所がもし南相木村だった場合、十分な通信施設が確保できない。
衛星通信しかないと判断した。
上部機関にその旨連絡するとともに、設置場所の問題があること考えた。
その時、篠原長野通信部長の言葉を思い出した。
「前年の王滝の地震の際、名小路局長が地元と日頃良くコミニケーションをとっていたので、
衛星の設置場所がスムーズに決まった。
各電話局長は常日頃から行政との連携を心がけよ」と言うものだ。
墜落現場が南相木村に近い場合、衛星通信車設置するしかなく、
予め調査し南相木村小学校と決める。
佐久統制無線中継所の稲垣係長、佐久局上原分会長、
佐久局営業小平係長に南相木のどこに設置できるかを検討してもらった。
材木置き場と小学校の校庭が候補に上がる。
但し、4tトラック2台分の面積と、南方向に仰角35°が確保できるかが不明である。
4:00ごろ、稲垣、小平両氏に調査に出かけてもらった。
結果は両方ともOKで、南相木村小学校に決める。
1.9近隣局の応援
12日23:00ごろ、小諸局の応援部隊が到着。
線路棟で待機してもらう。夜中すぎに南相木村役場に臨時電話の申し込みが殺到したので、
小諸部隊に出動を要請した。
上田局部隊については、翌日の対応に備え、上田局待機をお願いした。
但し、6:00ごろ小海総合センターのTZ-403が開通したが、線路部隊がいないので、
電話をつけられないとの連絡を受け、急遽、上田部隊に出動を依頼した。
1.10 現場との情報連絡の乱れ
12日 22:00ごろから逐次電話設置の工事部隊を派遣したが、その後の連絡が取れない。
社員は電話を開通させた後、通常は本部に連絡することになっていたが、連絡がない。
後で聞いた話だが、電話設置が完了するや否や報道関係者に電話機を取られてしまい連絡ができない。
又、電話をかけてもトラフィックの異常な増加により電話局間の回線がふさがり、
電話がかかりにくくなっていたことも分かった。
後の反省会で、大量の電話を開通させた時には、連絡責任者を明確にしておくとともに、
1本の電話機はNTTの連絡用に確保することとした。
1.11衛星中継車の南相木村への誘導
衛星車(電源車、アンテナ、交換機等トラック2台で1組)を南相木村に誘導する為、
2班出動させた。桜井氏等第1班は南相木小の校庭に出向かせた。陣取りである。
災害発生時には、往々として広場が駐車場として使われてしまい、
後から衛星中継車を入れようにも入らないとの予想を立てたからである。
衛星通信車。伊豆から来た衛星通信車を誘導、朝6時に南相木村に到着。一安心。
第2班。線路課篠原君1名は、野辺山駅にて伊豆からやって来る衛星車と落ち合う。
南相木村までの道案内の為である。
朝方5:00ごろ、両者は落ち合い、6:00には無事南相木村に到着した。一安心であった。
1.12墜落現場の確認と民族の大移動
13日朝8:00ごろ、墜落現場は群馬県上野村との報道があり、しばらくすると、
各機関の対策本部も群馬側に設置するとの報道が伝わった。
8:45ごろ佐久局では 南相木村の衛星車を使い、臨時電話を生かそうとしていたが、
上部災害対策本部から待ったがかかった。続いて、衛星車を群馬側に移動させる為、
10cm×10cm×5mの角材20本、2t以上のクレーン車を準備してほしいとの要請があり、
線路課から地元の材木屋とリース会社に手配した。
1時間後の10時には手配ができ、旭ヘリで4回に分けて衛星中継機材を上野村へ空輸した。
角材は、機材を地面から離して置くために使い、
クレーンは、トラックから機材を降ろすために使うものと想像した。
日航機の乗客の家族も小海総合センターからバスで藤岡市に向かうとの連絡があった。
後で日本航空の友人から聞いた話では、国道141号線、
佐久電報電話局前で弁当を積んで出かけたとのことである。
1.13 生存者確認
4名の生存者が確認された。徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ。(写真:business nikkeibp.co.jp)
13日8:00ごろ、4名の生存者が確認された。
川上慶子さん(12)、吉崎博子さん(34)、美紀子ちゃん(8)、
そして、アシスタントパーサーの落合由美さん(26)である。
10:00ごろニュースで生存者がいると第一報が伝えられた時には 正直言って「まさか?」と思ったが、
11:00ごろの報道では救出の模様を映しており、
当電話局内対策本部のメンバー全員「やったぞ!」と言いたげで、
昨夜来の徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ気分であった。
1.14三国峠への自動車電話の設置
三国峠にこのような自動車電話を利用した特設公衆電話を設置。峠の公衆電話は日本で初めて。
13日昼すぎ、信越無線支社から三国峠に自動車電話による特設公衆電話の設置指示が出た。
佐久統制無線中継所の稲垣君が眠そうな目をこすりながら、
電話局から1名貸してほしいとの要請を受け、元気そうな線路課の渡辺君を同行させた。
他の2台のうち、1台はJUMPSより、他の1台は諏訪から運ばれるとのこと。
16:00ごろ、稲垣君から連絡があり、三国峠は報道の車でごった返しており、
車の配置が難しいとの連絡を受けたが、かろうじて1台特設公衆電話を設置したとのこと。
自動車電話を利用した、峠の上の公衆電話は、日本で初めてではないかと思う。
1.15 事故現場への電話の設置
13日朝、本社で昨夜来の出来事を真藤社長に報告したところ、
社長より「事故現場に電話を設置せよ」との指示を受けたとのこと。
上部からの指示は 現場に最も近い川上村秋山交換局から、
三国峠の梓山無線中継所間にTZ-68を2対向(計6回線)を長野で準備し、
梓山無線中継所から事故現場までは群馬側でTZ-68,2対向を準備することとしたとのこと。
昼頃、小諸局、ならびに支社の応援を受け、
機械課塩川係長をチーフに TZ-68を秋山と梓山無線中継所の2箇所に運搬した。
昨夜から徹夜の職員も多く、皆の努力には頭が下がった。
14:35には 長野県側は6回線とも開通し、
後は群馬側との接続を待つばかりの状態となった。
尚、この無線は 通常は電話のない梓山無線中継所との連絡用ともなった。
20:00ごろ、TZ-68のSW(電源)を落とし、
中継所に2名、秋山地区の白木屋旅館に機械課の職員を泊めた。
1.16 ねぼけまなこの分会対応
13日20:30ごろ、24時間ぶりに帰宅し、入浴後すぐに深い眠りに落ちた。
しかし、ほんの間もなく23:00ごろ「電話よ」と言う妻の声で起こされた。
又、何かあったかと目をこすりながら受話器をとる。支社の深沢保全課長からであった。
群馬側で「明朝4:30から事故現場に無線機材を下ろすので対応を頼む。」との話であった。
早速、組合に対応すべく分会長宅に電話、先方も昨夜来の徹夜で眠そうだ。
了解をとりつけ、無線中継所の間(アイダ)所長に連絡。中継所の緊急無線で稲垣係長を起こし、
明朝4:30に梓山無線中継所のヘリポートでヘリコプターを迎えるように指示。
一方、加福機械課長には「白木屋旅館に泊っていた塩川係長に
5:00に秋山のTZ-68無線の電源を入れるように依頼」。
色々な連絡を終え、24:00に再び休む。
4:30に目覚ましが鳴り、妻の作ったおにぎり30個を持って出局。
「梓山無線中継所ヘリポート」着のはずが
ヘリコプターは誤って「東京電力十石峠ヘリポート」に人と機材を降ろしてしまった。
なお、図中破線は、TZ-403無線中継ルート
群馬支社の災害対策本部と連絡をとる。
ヘリポートにて出発に備えて待機しているが、いつ飛べるか不明とのこと。
1.17 迷子さがし
9:30ごろ、上部災害対策本部より
「中部電力のヘリポートに機材と要員をおろしたので、迎えを頼む 」と連絡あり。
すぐに中部電力に電話「海の口と松原湖にヘリポートあり」との連絡を受け、
川上村に近い海の口に秋山から2班を出迎えに行かせたが、ヘリコプターが降りた様子はない。
そうこうするうちに、10:30ごろ佐久災対本部に 東京電力小諸営業所より電話が入った。
東京電力十石峠のヘリポートから東電私設電話を使い、NTT職員が連絡して来たとのこと。
「ヘリコプターが東電十石峠に着陸してしまった。
佐久電話局との連絡をとるために、東電電話回線とNTT回線との接続を依頼されたが、如何にすべきか」
との問い合わせであった。是非つないでほしいと依頼し、しばらくすると十石峠から電話が入った。
群馬支部の田中調査員からで、「誤って十石峠に降りた。
群馬の災対から車で迎えに来るので、その車で梓山に向かう」とのことだった。
そんなことなら、TZ-68を長野側で準備したのにと、
現場への電話設置が遅れてしまうことが残念であった。
それでも16:00ごろ、群馬側のTZ-68が梓山に到着し、
17:30ごろ事故現場との間に1回線が開通した。
他の2回線のうち、1CHはハード不良、他の1CHは夏山無線との混信等でNGとのこと。
群馬支社は20:00ごろまでに色々とやっていたが時間切れ。
夜も遅かったので群馬支社の職員には、梓山中継所に泊るように勧めたが、
帰らなくてはならないと三国峠から群馬がわに下山して行った。
1.18 事故現場への回線増
8月15日朝、上部災対からTZ-403設置により、事故現場の電話を増やせとの指示あり。
「長野側は 秋山~梓山間にTZ-403を設置せよ」とのことであった。
もしそうすると、無人局の秋山局にも要員を貼り付ける必要があることから、
佐久本局―海の口-梓山のルートでTZ-403を設置すれば、秋山局での対応が不要である。
早速、その旨上申するとOKとの返事。
北相木用のTZ-403が空いたので豊中中継班を海の口へ、北相木の403を梓山へ移動するように依頼。
15:00ごろには、佐久本局、海の口、梓山へのルート設定が終了した。
後は、群馬側のTZ-403を待つばかりとなった。
1.19 事故現場への回線増完了
15日は群馬側の行動はなく、16日に持ち越された。
16日早朝、ヘリを使いTZ-68の片割れを事故現場へ運ぶとともに、
もう片方を陸路、梓山へと運んだようである。
16日の午前中には接続も完了し、現場への電話は5回線となった。
佐久局としては、無人局秋山に人を配置しなければならないという問題があるので、
佐久本局から梓山に伸びているTZ-403と群馬側のTZ-68の接続が望ましい。
試験的に片方の接続替(梓山のTZ-403と群馬側のTZ-68の接続)を行ったところ うまくいったので、
もう一方も切り替えた。事故現場の5本の電話は、いずれも秋山局収容から佐久本局収容となった。
これで長野側では、無人局の秋山局に人をおかなくてもすむ。
15:00ごろ、今から秋山局のTZ-68と梓山のTZ-68を撤収すれば、
今日中には佐久に戻れると考え、TZ-68撤収の指示を出した。
後で、独断でこの指示を出したことに、上部は不満げであったが、
当方としては一人でも職員を休ませたかったのである。
日航機墜落事故2ヶ月半の対応を終えた講師佐藤修三氏
2. 後日記
(1)ヘリコプター
事故発生から2週間程して、お世話になった方々の所へお礼に伺った。
その中で、南相木村の助役さんとの話の中で、事故の後、正体不明のヘリコプターが飛んで来て、
小学校の周りのレタス畑の黒いビニール(マルチという)を吹き飛ばしてしまった。
方々手を尽くして調べたが、現在まで正体不明とのこと。
「あっ、それはNTTでチャ-ターした旭ヘリでしょう。保障させていただきます」
ということで一件落着した。
(2)ショルダーホン
事故現場で大変役立ったショルダーフォン。後の携帯電話への発展のきっかけとなった。
事故から数日後、自衛隊から“NTTから借りている、ショダーホンは大変役に立っている。
是非、可能なだけ借用したい“との連絡があった。上部と相談し、横須賀の研究所に、
“あるだけ貸して欲しい。市ヶ谷の自衛隊に届けて欲しい”と依頼した。
後で自衛隊から聞いた話だが、市ヶ谷でNTTから受け取ったショルダーホンは、
ヘリで事故現場に運ぼうとしたが、天候不良のため、入間基地から車で運んだとの事であった。
なお、この時のショルダーホンは、まだ郵政省の許可が下りておらず、
あくまで人命救助のための非常通信設備として提供されたものである。
日航機事故での活躍が認められ、この年の10月に、商用試験として、一般にも開放された。
これが将来の携帯電話のもととなった。
我々の知らないあいだに、ショルダーホーンを事故現場で使える様にして
(臨時の基地局を設置し)、自衛隊に貸出した判断を誰がしたのか疑問を持っていた。
最近わかったことであるが、小生の友人、
佐藤健二郎君がたまたま、千代田無線中継所の所長をしており、
この時の経緯を聞くことが出来た。
(3)弁当
出発する工事部隊に、電話機と工事用の配線材料は、持たしたが、弁当は持たさなかった。
13日午前2:00ごろ、電話局内では、交換手の女性たちが、炊き出しでおにぎりを作ってくれた。
食べながら、外に行った人たちの食事について気がついた。
翌朝、弁当屋さんに準備してもらい、総務の木村社員、加藤社員に配達をお願いした。
これも反省会で話題になったが。一番遅く受け取った班は、13日(翌日)の昼だったと聞いた。
この話を、どこかでしたら、「腹が減っては、戦は出来ない」と言うことわざがあるでしょうと言われた。
それ以来事故(幸い再度遭遇していないが)、電算機のトラブル対応(こちらは数知れずある)時には、
食事の手配を忘れないようになった。
(4)小生の車カリーナ
事故対応が始まって間もなく、機械課長のご母堂が亡くなられた。
厳しい状況にあるので職場に残る、事故対応に車を貸し出してもいると言われる課長に対し、
講師は自家用車を貸して帰省させた。この愛車カリーナは、マフラーの穴のパテが外れて、
大きな音を出しながらも頑張って走り、葬儀に駆け付けた。
事故が起こった週末に、機械の加福課長からお袋が死亡したとの話があった。
彼は職場を守りたいので電話局に残りたいという。
喪主は誰かと聞くと弟がいるが自分だという。
彼は、長野に家を持ち、佐久に単身赴任していた。
すぐに、家に帰れ。と指示したが彼の車は工事部隊に貸してしまったので足が無いという。
じゃ、俺のを貸してやるとカリーナのキイを渡した。
前代未問の事故対策ではあるが、仕事を優先させようと言う気持ちはうれしかったが、
200人の組織、残った人で何とかなる。
彼は葬式を済まし、翌日に戻って来た。
「局長のカリ-ナ、マフラーに穴が空いていて、すごい音がする。
弟がかっこいいと言って近所を乗り回していました」とのことであった。
パテでふたをしていたのが外れたらしい。
3. 日航機事故対応を経験しての教訓
1.備えあれば憂いなし
-
日頃から(防災)訓練を行うこと。
-
経験があれば慌てない。
-
連絡先名簿の整理
-
取引先名簿の整理
2.社員,上部組織とのコミュニケーション
(人を知る;得意技、趣味、人柄、責任感等)
3.地元の方々との交流
4.地元の地理の把握
5.食料の手配-腹が減っては戦は出来ぬ
6.その他
-
組織の仕事内容の把握(一連の段取り、手順)
-
危機管理のノウハウ(佐々 淳行):
悲観的に準備し楽観的に対処せよ。拙速情報と遅い正確情報使い分け。予備。等
-
地元の常識と正確な情報:
中部電力のヘリポート(正しくは東京電力の十国峠ヘリポート)
長野県では電力会社というと中部電力となってしまう。
7.権限移譲の重要性
今回の現場での対応は比較的スムーズに出来たと思う。これは、
上部組織(長野通信部)が連絡要員を派遣してくれたこと、自由に行動させてくれたことが大きい。
上司の篠原寿人長野通信部長に大変感謝している。
以上