はじめに

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第4回セミナー

JAL当該機
墜落した日本航空の当該機

佐久電話局での日航機事故対応と教訓
―携帯電話はこうして生まれた―

講師:佐藤 修三氏(1971年電子工学科卒)

講師の佐藤修三氏
講師の佐藤修三氏
年の瀬が押し詰まった2015年12月26日(土曜日)に、第4回セミナーが東工大蔵前会館の手島記念会議室にて開催されました。 講師には、電電公社・NTTにながらく勤務された佐藤修三氏(1971年電子工学科卒) を迎え、 「電話局での日航機事故対応と教訓~携帯電話はこうして生まれた」というテーマで講演いただいた。
当日は18名の参加があり、そのなかの2名は学部生で、 卒業後の社会人なってからの貴重な話だから是非参加するようにとの幹事からの呼びかけに応えてくた。 また佐藤氏の榎本研究室の後輩で元JAL勤務の山内正芳さんが特別参加された。
このセミナーの企画及び司会は横山功一(1969年土木卒)幹事が担当した。
集合写真
参加者(敬称略): 写真後列左から:大野隆造(1972,建築)、横山功一(1969,土木)、前田恭男(1972,土木)、天本十和(B4)、 前田豊(1972、制御)、赤坂博史(B4)、福島正之(1967,建築)、中島博和(1972,電気)、小関伸夫(1974,建築)、 大佛俊泰(バスケ部長)前列左から;、内山久雄((1969,土木)、山本文雄(1967,化工)、星野仁美(1959,機械)、 鹿子木基員(1958,化学)、佐藤修三(1971,電子) (講師)、高木ヤスオ(1960,応化) 、青田正明(1961,機械) 、 山内正芳(1971,電子)
第4回セミナーの開催
第4回セミナーが開始された。
事故対応の概要
JAL123便の墜落事故(1985年8月12日)から今年で30年。
小生はたまたま群馬県御巣鷹山の西隣の長野県佐久地方の電話局の局長をしていた。 その日の晩、場所が特定されていない中ではあるが、報道機関や自衛隊から大量の臨時電話設置の依頼が殺到した。
対策本部
佐久電報電話局内に設置した
「日航機墜落事故対策本部」
 約200名の社員(交換手を除くと100名)が夜間にもかかわらず駆けつけ、 また、軽井沢、小諸、上田の近隣電話局からの応援部隊も加わり、夜間に約150本の電話を設置した。 場所も、報道内容に振り回され、臼田町、北相木村、南相木村、小海町、川上村へと広域となった。
郵政省から試験中のショルダーホンの基地局を現場近くに設置することを要望され、 無線部門が現場に近い三国峠に基地局を設置し、自衛隊に50台ほどのショルダーホンを貸出した。 これが現在の携帯電話とつながって行くことになった。 (この年の11月に「ショルダーホン」の商用試験が開始され、NTT内に移動体通信事業部が設置され、 1991年NTT移動通信網㈱に分社、1993年にドコモと改称された。)
NTTでは、本社、信越通信局、長野電気通信部、電話局も含め総力をあげ、 この日から遺体の収容、事故調査等が収束する10月中旬まで約2ヶ月間、対策本部を設置し、 事故現場との通信手段を確保し、救助活動を支援した。
本講演では、事故当日の晩の臨時電話の設置の模様、御巣鷹山の事故現場に どうやって電話を設置したか?衛星通信をどの様に活用したか? どの様に三国峠に臨時の基地局を設置したか?を述べ、最後に災害対策として、 どのような準備が必要かをまとめたものである。
セミナー風景
セミナー質疑風景
質疑
佐藤氏の発表は時間通り60分で終了し、その後、30分ほど質疑応答を行った。
Q.36歳という若さで局長として立派な活躍をされたわけですが、局長になるまでにどのような経験を積んで、 局長として活躍する下地を鍛えたのですか?
A.1973年に修士を修了して電電公社に入社、1978年に岡山電気通信部計画課長に転勤になった。 ここでの経験が、元々コンピュータが専門の私にとって通信分野の実務を勉強する機会となった。 本来の計画課の仕事以外にも、当時電話交換手を止めて機械化する計画が進行中で、 業務を委託していた郵便局と配置転換や仕事内容の変更に関して交渉するという難しい仕事も担当した。
Q.二つ質問があります。 (1)鉄道も電話を持っているが、協力はあったのですか? (2)自衛隊にショルダーホンを提供して有効であったと喜んでもらったとのことであるが、 自衛隊には通信は戦闘において必須のものであるから、独自の通信手段を持っていたのではないか?
A. (1)鉄道は線路に沿った通信網となっているので、協力は限定的になるでしょう。 (2)自衛隊には通信隊があるのですが、このようなケースの専門ではない。 やはり設備を作っていくのはNTTだと思います。
C. 今の質問に関連してコメントを追加しておきます。 救援活動を行った警察と自衛隊についてですが、現地での調整機能が不十分であったと言うのが、 私が感じた、問題点の一つでした。 それは、墜落現場の特定に時間を要したという点に現れており、 正しい情報を得ていたのに、判断を誤ったということです
(司会者) 学生さんからの参加がありますので、感想でも結構ですから、是非ひとことお願いします。
C. 大学で勉強している時には聞けないような仕事の現場の話を聞けて良かったと思います。
セミナー風景2
学部学生も参加し、幅広い年齢構成で
奥行きのあるセミナーとなった。
C. 最後の教訓の話の中で、権限移譲ということが出てきましたが、・・・(この部分聞き取れず)
A. 仕事をするときには、命令されてする場合と自発的にする場合があると思います。 失敗した時のことを考えると、命令されてやって失敗した場合には、それでお仕舞かもしれませんが、 そうすると進歩につながりません。 一方、自発的にやって失敗した場合には、自分自身で反省しますから、成長につながるのだと思います。 バスケも同じでしょう。
C. 佐藤さんの場合、仕事とバスケがコーディネートしているのですね。
Q. 私は民間企業で自動車電話を扱っていました。 認可前のポータブルフォンを使ったとのことですが、当時は新しい機器の開発の時期であり、 民間との連携はあったのでしょうか?
A. NTT社内で、研究所や開発部門との協力で、対応できたと思います。
Q. 現在では携帯電話が普及して当時とは違っていますが、このような危機が、 今、起こったとしたら何が問題になるのでしょうか?
A. 電源の問題が思いつきます。東北大震災の時にも通信に関しては大きな混乱はなかったので、 オリンピックのような大きなイベントでも大丈夫でしょう。 ニーズが分かって電池や料金などの改善が進み今につながっているのです。
予定の時間が過ぎて、質疑を終了して懇親会場に移動した。
懇親会風景:佐藤講師と中島博和氏(クリックで拡大)
懇親会
質疑の後で、恒例の懇親会に移った。 会場のレイアウトは、壁際に料理飲み物のテーブル、部屋の中央にテーブルといすを配置。 乾杯でスタートし、特段スピーチをお願いすることもせずに自由に懇談いただくスタイルにしたので、 あちこちで話の輪ができて、あっという間に予定の時間が過ぎ、楽しい時間がもてた。
第4回セミナー(2015/12/26)
JAL8119

 (事故前の当該機)

佐藤修三氏(1971年 電子卒)
佐久電話局での
日航機事故対応と教訓
( 携帯電話はこうして生まれた)

第4回セミナー報告
本文
(このページ)

詳細報告

司会の横山氏
第4回セミナーの企画、司会を担当された横山功一(1969年土木卒)幹事
ホームページ
原文:佐藤修三氏、横山功一氏
編集/作成:山本文雄

第4回セミナー懇親会写真
(写真クリックで拡大)

先ずは乾杯
佐藤修三氏の研究室の後輩で元JAL勤務の山内正芳氏(1971年電子)と歓談する大野隆造氏
セミナーに深みを与えて頂いた山内正芳氏と福島正之氏
現役4年の天本十和君と赤坂博史君と鹿子木会長(何れも当時)、
佐藤修三氏と高木ヤスオ氏、前田恭男氏と山本幹事、それぞれ熱の入った議論をしている模様。
星野幹事、青田幹事、前田豊幹事(いずれも当時)和やかに、熱心に歓談
いよいよ締め