はじめに

故石坂高志さんを偲ぶ会

1958年卒 鹿子木 基員

石坂さん遺影

故石坂高志さん

秋のリーグ戦で、現役チームが大岡山で貴重な一勝を上げた2015年9月26日(土曜日)、名古屋のウェスチン・ナゴヤ・キャッスルにおいて、85年史でも紹介されている石坂高志氏(1953年のヘッドコーチ)を偲ぶ会がご遺族によって催され、私と松原光一会員(1953年卒)が参加しました。
石坂さんは、幼少の頃から松原氏の親友で、旧制東京高校時代にインターハイで全国制覇を経験し、1953年には、ロケット開発で有名な糸川英夫先生が率いる東大第二工学部応用物理科の学生でした。東工大の須藤先生(監督)が体調を崩されたので、松原氏が推薦して、ヘッドコーチをして戴くことになったのです。
当時1年生だった私は、石坂さんとのお付き合いはたった1年だけだったのですが、石坂さんから沢山のことを学び、影響を受け、その影響を今でも活用させて戴いています。
石坂さんは、人を楽しくさせたり勇気づけるのがとても上手で、メンバー全員から尊敬され親しまれました。石坂さんが「君の力を出せば、負けるはずないよ」というと、みんなその気になりました。しかし、現実は厳しくていつもいい結果が出る訳ではないですが、その場合は、「惜しかったなあ、ついてなかった」とあっさり締めくくられました。
コーチをされたのは1年だけで、東大を卒業して三菱重工に入社されました。その後、石坂さんは、会社や愛知県のバスケット界にいろいろ貢献されたと伺っています。
石坂高志さんは昨年の9月26日に亡くなりましたが、偲ぶ会が石坂美幸夫人、お子様、お孫さんたち、ご遺族によって、行われ、約60人の方が参加しました。当同窓会から、同期(幼稚園から小学校)で親友の松原光一先輩と小職が招かれて参加し、スピーチをする機会を与えられました。我々の他に、東大の応用物理で同期の秋葉さん(宇宙航空分野の著明人)ら数人がスピーチをしました。
私は、スピーチで次のようなことをお話ししました;
1953年、62年も前のことですが、石坂さんは東大の応用物理 の3年生のときですが、東京工業大学のバスケットボール部のコーチをしてくださいました。人を楽しくさせたり勇気づけるのがとても上手で、メンバー全員から尊敬され親しまれていました。石坂さんが「君の力を出せば、負けるはずないよ」というと、みんなその気になりました。しかし、現実は厳しくていつもいい結果が出る訳ではないですが、その場合は、「惜しかったなあ、ついてなかった」とあっさり締めくくられました。コーチをされたのは1年だけで、東大を卒業して三菱重工に入社されました。
         
最近、東京工業大学バスケットボール部同窓会はバスケット部の85年史を編纂、2年前に発行しました。その頃、石坂さんは入院中でした。
昨年、東工大のバスケット部は、秋のリーグ戦で良い成績を出して昇格することになり、同窓会では、お祝いの行事をしようということになりました。その知らせが、石坂さんのお宅に届いた時、石坂さんはお亡くなりになっていましたが、奥様のご配慮のお陰で祝賀行事を、盛大に行うことができ、又、東工大バスケットボール部85年史をご霊前にお供えすることができました。
それらの出来事を通して、伝説のコーチ石坂高志と現在の選手たちの絆が62年間に時を越えて繋がりました。私どもの部では、バスケット大好きの先輩が監督、マスターコース在学生がコーチとなって、お互いに研鑽をつみながらコーチの役割を果たす仕組みでやっていますので、石坂さんの事例はコーチとメンバーの絆の繋がりのひとつの模範事例として、今の若者にも伝わっております。
私は、石坂さんから栃木県の氏家高校のコーチを引き継ぎましたので、他のメンバーよりもより多くの影響を受けました。楽しい話題が豊富で、長時間ご一緒するのが楽しみでした。
その地方の方言で、都会では「あら、いやだ!」という場合に、「おれ、やんだあ!」と言います。生徒が「おれやんだあ!」というと、石坂さんは、真面目顔で「え!雨、何時降った?」と言います、言い方のタイミングが絶妙でした。時には、しんみりと「おまえは上手になった。僕は期待していなかったのに。人知れず努力していたんだね」
偲ぶ会の中で、故人の想い出アルバムがスライドで紹介され、指揮を執る石坂高志コーチの写真(東工大バスケット部85年史の26ページ)も紹介されました。
指揮をとる石坂さん写真

偲ぶ会で紹介された
「指揮を執る石坂コーチ(対東大戦、1953年秋、国民体育館)」

ベンチ左から青木、島田、浅野、阿部、鹿子木、堀井、小林の各氏