はじめに

第6回セミナー(2016年12月13日)

2.プロジェクトX 挑戦者たち 

国産コンピュータ ゼロからの大逆転~日本技術界 伝説のドラマ~

1.プロローグ
 
日本技術界の伝説になった男がいた。彼は川崎市多摩川の河原で部下に語った。 「すべての開発は感動から始まる」ミスターコンピュータと慕われた技術者、池田敏雄である。
20世紀最大の発明、コンピュータ。軍事・宇宙・家電製品・金融システムまで、 あらゆる産業の心臓部である。その市場を握る者は世界を制す、と言われた。 戦後コンピュータ市場に君臨したのはIBMだった。開発資金は一国の予算に匹敵し、 「巨大な象」と呼ばれた。
無謀にもその牙城に挑んだのはグズと言われた日本の通信機会社、 富士通信機製造(現在の富士通)だった。プロジェクトルームはトンカツ屋や駅のホームだった。 逆転へのカギは高速回路LSI。しかし、配線は「もりそば」のように絡み合った。 高温で焼き切れた。皆が諦めかけたその時、リーダー、池田は言った。 「挑戦者に無理という言葉はない」
これは世界最速のコンピュータに挑んだ、 日本技術界の壮絶な闘いのドラマである。
番組は富士通沼津工場内の池田敏雄記念室にある FACOM128の紹介から始まる。畳40畳にもなる大きさのこの機械、昭和31年に 日本人が最初に開発した商用コンピュータである。 動くものとしては世界で最も古く、これ1台しかない。 国産初の旅客機YS11の設計や日本が世界に飛躍したカメラや自動車の設計にも使われ、 その後の日本産業発展の支えた「原点」とも言えるコンピュータである。
2.新入社員いきなり問題社員に
 
昭和21(1946)年、戦争によって荒廃した国土を建て直すべく、 日本は復興の真っ只中にあった。通信機事業もそのひとつであり、 空襲によってズタズタになった電話網を回復・整備するため、メーカーは 工場をフル回転、大量の電話機や交換機の生産に追われていた。 川崎市にある富士通信機製造(現在の富士通。以降本文では、富士通とする)も、 そうした電話機メーカーのひとつだった。売上げは業界ビリ。 設計はドイツに委託。自前の技術はなく、グズ通信機と言われていた。
この年、富士通に池田敏雄は入社した。身長180センチという、 当時としては長身で、それだけでも目立っていた。そして、いきなり問題社員になった。 毎日2時間の遅刻。昼休みにはバスケットに興じ、時間が来ても戻って来ない。 上司に何度も叱られていた。
後輩の山本卓眞はあきれた。「私が入社したときにはすでに有名でした。 遅刻はし放題ですし、足を横柄に組んで、タバコをプハーッとやって。 お世辞にも行儀がよいとはいえなかった」
昭和22(1947)年秋、会社を揺るがす大事件が起きた。 電話機を納入していたGHQから抗議が入ったのだ。 「雑音がする、欠陥商品だ」相手はGHQ。原因はわからず生産は中止になった。 頭を抱えた機構研究室課長の小林大祐にひとりの男が訪ねて来た。 ノートを差し出しながら、原因がわかりましたと言った。池田だった。
「この電話機ではダイヤルが100回転するたびに、 構造上必ず1度雑音が起こります。理論的に避けられない現象です」 ノート2冊には、精緻な証明がびっしりと書き込まれていた。 小林はあ然とした。「こいつは何者なのだ?」しかし会社の業績は悪化。 大量解雇が始まった。
3.コンピュータに取り組む
小林のもとに突如ニュースが飛び込んだ。 昭和27年のアメリカ大統領選挙でのことだ。戦前から研究されていた革命的な機械が実用化された。 コンピュータだった。アイゼンハワーの当選を開票僅か7%で的中させた。 小林はこれだ!と思った。
小林にある情報が入った。兜町の東京証券取引所は、 そろばんで計算が追いつかず、コンピュータの導入を検討している。 小林は考えた。「あの男ならやれるかも知れない」池田を呼んで言った。 「日本人の手でコンピュータを作ってみないか?」池田は「面白そうですね」と答えた。
昭和27年夏、熱海の保養所で開発が始まった。 池田と後輩ふたりの小さなプロジェクトだった。後輩たちは部屋に缶詰になり、設計に打ち込んだ。 ところがリーダーの池田は昼間から温泉に入り浸っていた。後輩の山本卓眞は頭に来た。 山本は当時を懐古して言う。「大きな声で歌を歌うし、朝昼は逆になるし、 私は一体誰に頼ればいいのか真っ青になった」 池田は湯に浸かり、同じ歌を歌っていた。シューベルトの「冬の旅」だった。 歌詞の意味はこうだ。「私は果てしないさすらいの旅を行く。 かつて誰一人通ったことがない道を・・・」1ヶ月が過ぎた。 山本たちは真夜中に池田の部屋を覗いた。度肝を抜かれた。部屋中に設計図が散乱していた。 1枚々々アイディアに満ちあふれた回路が書き込まれていた。再び山本が述懐する。 「これには腰を抜かさんばかりに驚いた。お見事の一言だった」
4.世界最速のコンピュータへの挑戦
昭和29年(1954)年10月、池田たちの設計図を基に、 試作機が完成した。FACOM100と名付けた。高さ2メートル、24畳分の大きさだった。 噂を聞き訪ねて来たのは物理学者の湯川秀樹博士だった。 ノーベル賞を取った中間子理論の動きを解析する難問を抱えていた。 手作業で2年間かかる計算式をコンピュータにかけたところ僅か3日で回答を得た。 あまりの速さに湯川は唸った。
しかしその矢先、アメリカから怪物が上陸した。巨大な象と言われたIBMだった。 世界のコンピュータ市場の7割を押さえていた。社員は10万人、開発陣にはノーベル賞学者もいた。 持ち込んだコンピュータの速度は、富士通の100倍。日本の銀行や生保会社はこぞって導入。 コンピュータの置き場はIBM室と呼ばれた。まるで象と蚊の闘いだった。プロジェクトは沈み込んだ。 その時池田はメンバーの顔を見据えると、決然と言った。 「世界最速のコンピュータを必ず作る。挑戦者に無理という言葉はないのだ」
当時世界のコンピュータ市場を席巻していたのはIBMだった。 昭和30年代半ばに、当時の通産省ではIBMの本格的な日本進出を認める。 その条件は、当時IBMが持っていたコンピュータの基本的な技術を、 日本のメーカーが使うことを認めるというものだった。 それ以来熾烈なコンピュータ開発競争が展開された。
5.巨大な象、IBMとの闘い
IBMへの挑戦が始まった。演算速度の差ははるか100倍。 昭和34年、池田は36歳。電算機課30人の課長になっていた。しかし課長の池田が会社に来ない。
部下の石井康雄は悩んでいた。担当はコンピュータの心臓部の設計。 納得のいく線が引けず演算速度が上がらなかった。夕方4時、池田からの電話が鳴った。 「みんなを連れて出て来い」呼ばれたのは池田馴染みのトンカツ屋、「あたりや」。 皆に揚げたてのトンカツをご馳走した。安月給の身に肉の旨さが染みた。 池田は悩む石井から回路図を受け取ると、おもむろに1本の線を引いた。石井は驚いた。 演算速度が見違えるほど速くなった。石井は当時をこう語る。 「アー、このように作るべきなのだ、という答えが見つかった時は本当に嬉しかった」
入力装置担当の野澤興一は、自分の設計に自信があった。 それを見た池田の顔色が赤くなり、怒鳴った。「もっと速く動かせる筈だ。 お前は限界に挑戦していない」野澤は述懐する。「設計が終ったときに、 いいものができたと喜ぶようではダメということだ。欠点が見え過ぎて、 どうしようもなくなるくらいに考えながら設計しないとダメだ、ということでしょう」
会社に行かない池田、自宅で夜明けまで回路図と向き合っていた。 妻の静(しず)に頼んだ。「そばにいてくれ」午前4時、静は熱い茶を入れた。静は語る。 「あまりひとりでいることが好きではないのです。淋しがり屋というのでしょうか。 とにかくいてくれと言っていました」
朝方まどろんだ池田は模型飛行機を作り始めた。 数日後、多摩川の河原に、あたりやで怒鳴った野澤を連れ出した。何も言わず、 手作りの模型飛行機を放った。青空をゆったり舞った。野澤は見とれた。 池田はこぼれるような笑顔で言った。「すべての開発は感動から始まるのだ」野澤は胸が熱くなった。 「とにかくそれに惚れ込め。惚れることができないといい仕事はできないよ、とよく言われた」
ある日、会社で問題が持ち上がった。「課長の池田はズッと欠勤している。 給料の支払いを止める」上司の小林は総務に頭を下げた。「池田を辞めさせたら会社の未来はない。 規則を曲げてください」会社は池田の欠勤を認めた。「あたりや」がプロジェクトルームとなった。 またある日、帰りの電車のホーム、池田はいきなり回路図を開くと、手を加え始めた。 「発想は思い付いた時が勝負だ」皆どこへ行くにも回路図を離さなくなった。
昭和36年、新たなコンピュータが完成した。FACOM222である。 演算速度は以前の100倍、IBMに肩を並べた。その時だった。巨大な象が再び立ちはだかった。 IBMが新世代コンピュータ360を発表した。電子回路はトランジスタからIC(集積回路)に進化。 さらにその秘めた性能にメンバーは衝撃を受けた。従来のコンピュータは、製品の設計や情報の管理など、 目的ごとに1台々々作っていた。「360」はソフトさえ入れ替えれば、1台で何役もの機能を果たした。 360度すべての客の要望に応えます。開発リーダーは天才とうたわれたジーン・アムダールだった。 開発費用は1兆8千億円。日本の国家予算の半分に匹敵。「360」の出現に、GE社やRCA社といった世界の 大メーカーはコンピュータ部門から撤退した。富士通の社内でも「勝ち目のない戦はやめろ」 という声が一気に上がった。その時池田は重役室に向かった。反対する役員を前に言い放った。 「今こそ攻めに出るべきです。私に秘策があります」
6.世界標準戦略への転換:技術者の執念が結実
 
昭和46年、川崎工場の一角に池田は陣取っていた。 この年48歳、コンピュータに身を投じて20年。全てを賭けていた。 技術部長の安福眞民に秘策を打ち明けた。「コンピュータにLSI(大規模集積回路) を搭載できないか」僅か4ミリ四方に数千本の配線を詰め込んだLSI。 性能はICの10倍以上。アポロ計画でロケット制御に使われた高速回路だった。 安福はコンピュータには無理だと思った。LSIは配線の密度が高く、長時間電気を通すと 内部の温度は200度まで上昇。焼き切れた。安福は述懐する。「チップが溶けちゃう。 チップの電気回路は破壊されるし、滅茶苦茶になってしまう」その時思わぬニュースが入った。 あの「360」の開発者がIBMを辞め、独立した。
天才技術者、ジーン・アムダール。彼もまたLSIの構想をあたためていた。 池田はアムダールを京都に招いた。日米を代表するふたりの技術者。LSIのことを語り合った。 ふたりは奈良から阿蘇へと2週間旅をした。池田は会社に行かなかった。 クラシックに文学、話題は尽きなかった。アムダールは当時をこう語る。 「池田さんとは昔から親友だったような気がしました。 技術はもちろん、全ての話題に詳しく、とてつもなく優秀な男だと驚きました」 旅の終わりに、池田とアムダールは契りの杯を交わした。
昭和47年、池田はシリコンバレーのアムダール社に35人の若手を送り込んだ。 業界初の日米共同開発が始まった。いきなり問題が発生した。 1台のコンピュータに必要なLSIの数は実に2,000。LSI同士を繋ぐ配線が「もりそば」のように絡み合った。 設計担当の吉岡義朗、「何千本という細い配線が裏を這いますので、 設計ミスが次々と出てきました」200度を超える熱問題、裏側に煙突を付け、 その表面から熱を逃がそうとした。しかし、120度までしか下がらず、回路はもたなかった。 開発が始まって2年、費用は総額300億円に上った。富士通の資本金に匹敵した。 重役たちは言った。「プロジェクトは中止だ。さもなければアムダール社の経営に介入する」
昭和49年3月、大事件が起きた。日本の富士通本社に、 突然アムダール本人とその社員が乗り込んで来た。「本当に会社を乗っ取る気か。 ならば今すぐ全員会社を辞める」池田を20年間支え続けてきた山本卓眞、マズいと思った。 「破局は最悪。アムダールは我が社の天才が惚れ込んだほどの良さがあったのです」その時だった。 池田は社長に直訴した。「このプロジェクトには日米の技術者の夢が懸かっています。 必ず今年中に完成して見せます」
共同開発が再開された。期限はあと9ヶ月。 部下の鵜飼直哉、池田の気持ちに応えたかった。「技術屋としては何が何でも このコンピュータを完成させたいし、あとには引けない状態でした」 「もりそば」と言われ、絡み合った配線、日米の技術者たちが1本々々解きほぐし、 精緻な設計図面を引いた。熱問題については煙突に3重の円盤を付け、表面積を広げて熱を逃がした。 ついに80度を切り、チップは守られた。LSIの設計が完成した。技術部長の安福は製造の大号令をかけた。 3,000人を総動員。ラインをLSI専用に組換え、3ヶ月ぶっ通しで作業を続けた。 安福は何としてもこの技術を世に出したかった。 「富士通がどうなっても、これさえできれば良い、という思いだった」
7.完成間近、突然・・・
 
完成は目前。池田には大仕事が待っていた。 営業マンとしてコンピュータを売込むことだった。スペインの電話会社、アメリカ、ドイツへ 行ってはLSIを見せ、懸命に言った。「これが世界最速のコンピュータです」月の半分は海外出張。 開発会議にも追われた。分刻みの過酷な日々が続いた。 昭和49年11月10日、池田はカナダからの客を出迎えに羽田空港に向かった。 ロビーで握手をしようとした瞬間、池田は倒れた!くも膜下出血だった。 部下の石井、野澤、安福、鵜飼、そしてアメリカからアムダールも駆けつけた。 鵜飼は病室の前で叫んだ。「もうすぐ夢が叶います。目を覚ましてください」 4日後、池田敏雄は息を引き取った。51歳だった。日本のコンピュータ産業を切り拓いた男の壮絶な最期だった。
残された部下たちは池田の志を継いだ。 1ヶ月後、遂にLSIを搭載したコンピュータが完成した。「470V/6」である。 演算速度はIBMの3倍。世界最速のコンピュータが誕生した。 半年後、その性能を聞きつけたNASA(アメリカ航空宇宙局)が購入を決めた。 巨大な象、IBMの牙城に初めて日本のコンピュータが納められた。 プロジェクトのメンバーたち、池田の言葉を何度も噛みしめた。 「挑戦者に無理という言葉はないのだ」
筆者注)「470V/6」は日本では「FACOM M-190」として販売された。
8.エピローグ
(番組ではここで、池田さんのかつての部下だった、 野澤興一氏、鵜飼直哉氏、石井康雄氏がスタジオでインタビューに答える形で当時の想い出を語る。 そしてあの「あたりや」のトンカツが振る舞われ、大喜びで舌鼓を打つ)
《再びナレーションが続く》
池田さんたちが作り上げた国産コンピュータは次々に 世界の市場に打って出た。アメリカ最大の技術開発機関、ベル研究所も購入。 巨大な象、IBMとその後も激しい開発競争を繰り広げた。 IBMの会長(当時、フランク・ケアリー氏)は日本の技術力をこう評した。 「ライバルの出現はアメリカからではなかった。それは日本のメーカーだった」
ミスターコンピュータ、池田敏雄さん。 昭和43年、IBMとの闘いのさなか、若手技術者を前に自らの思いを語った録音テープが残っている。 「電子計算機屋というのは、自分の進歩を止めた瞬間に必ずつぶされてしまうのですね。 ですから、人間は進歩していない限り、本当の生きている実在感と幸福感はないはずなのです。 絶えず進歩していく、自分を進歩させていくということに、 本当の生きている意義があるのじゃないかと私は思います」
池田さんの家に40年前に作った模型飛行機が残されていた。 娘の直美さん、河原から帰ってきた父の嬉しそうな顔を「子どもみたい」と思った。 「それは楽しげでしょう、きっと。それだけ作ったものが飛んだ、 ということで『素敵』ということでしょう」--終--
第6回セミナー(2016/12/13)

小関伸夫氏氏
(1974年建築卒)

わが国のコンピュータ開発の父
池田敏雄先輩の活躍を知ろう

第6回セミナー報告

池田敏雄氏プロフィール
1923年東京都両国にて誕生
東京市立一中、バスケ先輩の引きで県立浦和高校に進学。 数学に強く、バスケは中学全国制覇、インターハイ優勝。
1943年東工大電気工学科入学
終戦の翌年、休眠中の大学リーグを再興。東工大は春、秋を1部で戦った。
1946年富士通信機製造㈱入社
バスケ部創設、国体3位。 日本初のリレー式計算機完成。その後 独自の計算機を完成させたが51歳で逝去。 勲三等瑞宝章など授受。