はじめに
第5回セミナー(2016年3月15日)
東日本大震災5年特別企画
三菱製紙㈱八戸工場の震災時対応と復興について
講師:金濱福美氏
(三菱製紙㈱八戸工場被災当時工場長
現新北菱林産㈱社長)
津波被害前の三菱製紙八戸工場。工場敷地は、海岸線に沿って約2km,主要な部分の幅約500m。
写真上部は、八戸港及び市街地で、港湾入口の防潮堤により、津波の被害は、
岩手県沿岸などに比較すると小さかった。(三菱製紙㈱殿提供)
セミナー開催経緯と講師の紹介:星野仁美氏(1959年機械卒)
津波で全損被害を受けながらも、同年11月には全面復旧させるという驚異的早さで復興を遂げた「三菱製紙㈱青森県八戸工場」で
避難と復興の指揮をとられた当時の工場長金濱福美氏にお話をしていただいた。
星野仁美氏(同窓会幹事)及び井田榮三氏(1959年 応化)が
この工場に深く係わられたことから、貴重な機会を得ることができた。
約1年前から、星野幹事及び山本幹事が準備を進め、八戸工場に金濱氏をお訪ねするなどして
本日のセミナー開催にこぎつけた。
金濱福美(かねはま ふくみ)氏は、地元八戸市出身で山形大学の工学部で学ばれた後、
三菱製紙㈱に入社され、2008年から八戸工場長を務められ、2011年3月の大震災を工場長として
経験されることとなった。
工場復興後の2013年から現在の新北菱林産㈱社長を務められている。
講演目次
(講演内容に加え、これ補完する質疑及びコメント内容も加味して記載)
津波襲来:隣接市街地の約倍の高さの津波が押し寄せた
写真上は、下図の建屋間の通路を津波の先端が押し寄せてくる様子。
既に、2階建ての建屋が通路入口まで流されている。(三菱製紙㈱殿提供)
2011年3月11日14:46マグニチュード9.0の地震が発生、震源から330km離れた八戸工場には
約45分後に津波の第1波が到達した。(右欄の図-1参照)第1波で近隣の津波高さ検出装置が破損し観測不能となったが、
八戸工業大学の調査結果から、八戸工場には、その後8.4mの津波が襲来したと推定される。
右の写真は、工場間の通路を最大津波の先端が押し寄せてくるところを、工場の高所の窓から撮影したもので、
手前にまだ乾いた地面が見える一方、海岸側にある2階建ての建屋が流され、更にその後ろに大きな水しぶきが見える。
津波第3波の襲来:ローリーや家屋が
流されている(三菱製紙㈱殿提供)
八戸市街地は、港湾沖合の防潮堤により津波高さ4.68mと推定され、比較的被害は小さいとされたが、八戸工場の8.4mの津波は、
多くの犠牲者を出した宮城県閖上地区を襲った津波と同等と推定され、大変厳し状況にあった。(右欄の図-2、図-3参照)
講演では、海岸線が見える頑丈な高所からの動画が紹介され、
津波の脅威とその後の被害を緊迫感を持って聴視した。
避難の状況:早期退避と津波に耐えた工場建屋により犠牲者ゼロ
抄紙機のある2階フロアー高さは工場地面から7.5m,ラダー(階段)上は20m。
これに対し自衛隊基地の避難場所高さは工場地面から11mである。(写真:三菱製紙㈱殿パンフレットより)
地震発生と同時に東北地方一帯は停電し、八戸工場への工業用水供給も停止した。
金濱氏は、この時点で工場の稼働を停止し、工場構内の関連企業従業員1,000名と従業員500名中、
ボイラーなどユーティリティー担当者を残して帰宅を指示した。
工場内残留者に対しては、2階以上の高所への退避を指示した。
なお、このことに関し、参加者から、工場内に残ることは安全なのかとの疑問が出され、、
講師から以下の見解がが示された。
① 工場建屋は、地盤に打ち込んだ基礎による頑丈な鉄骨構造であること。
② 2階には、高台避難場所となっている自衛隊基地より標高が高い部分があること。
③ ページングなど指揮所からの連絡手段があること。
から、工場の主プロセスがある2階は安全であると認識していた。
退避待機指示を受けたユーティリティ担当以外に、全従業員の約半数が工場内に退避した。
この件に関しては、この震災経験を受け、自衛隊基地に全員退避することとしたが、
その後も検討を進め、避難先として工場内が安全性の観点でリスクが小さいと評価されること、
更に、想定されている青森県沖震源の津波の際は、短時間で避難する必要があることを考慮して、
工場内避難ケースも組み込んだ避難計画に修正した。
トラック荷台から工場屋根に脱出するトラック運転手(三菱製紙㈱殿提供)
対策本部を地震発生直後に設置した。24時間体制で保安係がおり、
緊急連絡など対策本部用設備を置いている正門警備建屋の1階が対策本部であるが、
大津波襲来時には、全員自衛隊の避難場所(地面より11m高さ)に避難した。
津波が収まった後は、総合事務所の2階会議室を対策本部とした。
対策本部の場所についてその後検討を進め、
大津波警報時は、工場内の特定の部屋(地面から11.5m)を、更に、津波の大きさなどに応じて、
同工場の最上階(地面から20m高さ)を対策本部とすることとしている。
気象庁の津波警報は地震発生直後の1mから10mまで順次予測値が大きくなり、停電も重なって、
正確な情報の把握が困難な状況にあった。(右欄表-1参照)
幸い、自家発電によるテレビ映像で石巻などの津波被害の状況から、より警戒を強めた。
この自家発電設備は、最大津波で浸水するまで稼働した。
海側から、山側の駐車場まで流され構内山側の駐車場で留まった(三菱製紙㈱殿提供)
早期退避に加え、工場建屋自体が防波堤の役割を果たし、海側津波高さ3.6mに対し、山側は1.3mと津波の影響が大きく緩和された。
これにより、当日入構していた人含め犠牲者ゼロとすることができた。
早期の退避と合わせ、工場のレイアウト構成や基礎の設計も津波防災効果を発揮したと言える。
なお、この津波で、入構していたトラック運転手が津波にトラックごと流され、建物の屋根に逃げて助かった。
また、海岸近くにある関連企業で残っていた数人が2階建ての2階で着替えをしていて建屋ごと山側の駐車場まで流されたが、
浸水が1.3mであったことから、建屋は津波の引きに流されずに残り、救助された。
津波の引き潮。海底の砂浜が露出し、沖合では沈没船(破線)が姿を現した。
押し寄せる津波も大きい分、引きも大きかったが、山側の海水は工場建屋が抵抗となり引き潮もゆっくりだったため
被害が緩和された。(三菱製紙㈱殿提供)
これらについては、停電状態で建屋外で作業する関連会社従業員や当日入構するトラックの運転手などへの情報伝達の課題として検討がなされている。
従業員の社宅は高台にあり、数人の関連会社社員の自宅が津波の被害を受けたが、犠牲者は出なかった。
自宅の被害が大きかった家族には社宅に入ってもらっている。
今回、従業員家族で一人も犠牲者が出なかったことは、この後の復興において大変力になった。
津波被害状況:工場設備は、一階部分にある電気計装系が浸水被害を受けた
海岸に面した工場建屋の扉などが津波で破壊され、海水が流入した。(三菱製紙㈱殿提供)
海側にある2階建ての建屋などは、流されたが、
基礎が地盤上にある主工場建物は、流されるような大きな被害は無かった。
しかし、海岸側にあり、大津波の直撃を受けた製品倉庫などは、津波で流された漂流物の衝撃で扉などが破られ、被害を受け,
海水が流入するとともに、製品などが流され散乱した。
工場の山側での津波高さは、工場建屋が防波堤となって浸水は1.3mであったが、JR貨物の貨車、多くの車などが流された。
しかしながら工場建屋があるため、津波の引きも緩やかだったため、工場山側に留まった。
工場より山側で、流された貨車、自動車、海岸側から流された建屋など。
まだ津波が襲来している。(三菱製紙㈱殿提供)(三菱製紙㈱殿提供)
工場内の機器は、地面より1.0mの基礎の上に設置されていたが、1階部分にある電気・計装系設備が海水に浸かる被害が出た。
工場保安電力確保のため、自家発電装置1台を運転していたが、大津波襲来で緊急停止させた際、
冷却不足でタービン軸受けメタルが損傷した。
工場一階は浸水し、電源盤、計装盤などが被害を受けた。(三菱製紙㈱殿提供)
チップや製品を運ぶ専用船の港は、海底ののがれきで入港不能となった。
また、近くの馬淵川の浚渫土壌を埋め立て地に移送する国土交通省のパイプも流され大きな被害が出た。
津波で製品倉庫の扉が壊され、製品が散乱している。
その前には国土交通省の馬淵川浚渫土壌移送用パイプが流されてきている。(三菱製紙㈱殿提供)
復興:がれきの処理とユーティティーの復旧を優先した
震災直後に社長から、「全てのマシンを立ち上げること」及び
「発電設備を早期に立ち上げ地域に給電すること」との明確な方針が示されたので、
復旧、復興に全力を傾注し、震災後約2ヶ月で東北電力へ給電開始し、抄紙機を順次立ち上げ、
11月24日に工場を全面復旧させた。
印刷用紙は、八戸工場以外社内他工場では生産しておらず、
早期復旧してシェアーを維持するとともに、なにより
当社特定抄紙機のラインを指定して注文していただく顧客もあり、これに応えたいとの気持ちが強かった。(右欄:表-2参照)
(上)がれきの山。奥にJR貨物のコンテナ車も見える。
(下) 津波で海水がかぶった製品の山。(三菱製紙㈱殿提供)
これまでの震災の経験から、がれきの処理とユーティリティの復旧を先行したが、早期復旧の観点で大変有効であった。
がれき撤去の2週間は、がれきによる怪我の防止や作業効率の観点から、これら作業に関係ない従業員の出勤を停止したが、これは大変効果があった。
並行して、全従業員を構内の安全な場所に集め、方針の意図を説明して不安の払しょくを図ったことは、
その後の復旧作業における従業員の士気面でも大変良かったと考えている。
工業用水設備及び受電設備は、津波の被害が少ない山側に設置されていたため、
早期の受水と東北電力からの受電が可能となり、復旧に弾みをつけた。
設備基礎の1mかさ上げ含め、工場建設時の先輩の先見性に救われた。
受電後は、安全性を一つ一つ確認しながら電灯線を繋ぎこんでいった。
時間がかかったが、火災などの事故は無く送電開始できた。急ぐ中でも、
確認しながら着実に進めることは、結果的に工程の短縮につながるとの確信を深めた。
そして、2か月後には、停電で困難な環境にある被災地に、自家発電電力5万KW・約10万世帯分の電気を供給できた。
(右欄:図-6 発電設備概要参照)
海水に冠水したモータの洗浄
(温水洗浄工程)(三菱製紙㈱殿提供)
1階に設置した電気・計装設備は、海水が浸水した。
多くの設備は、浸水による泥などが堆積したので、洗浄による復旧を行った。
部品を交換して修復したものもあるが、海岸側の設備では、更新したものもあり、早期復旧の観点から最適な方法を選択した。
モータ類、計装盤のカード類は、それぞれ専門技術を有するJFE及びドイツ等の会社に洗浄をお願いし、品質、時間とも満足できる結果が得られた。
これまで直接の仕事関係はなかったが、普段からの幅広い情報収集が役立った。
2015年11月、事前打ち合わせで訪問した八戸工場の総合事務所の1階エントランス部分。
侵入した津波の高さが窓ガラスに示されている。(写真赤矢印:写真に加工付加)
(右欄:図-81階応接室の様子 参照)(三菱製紙㈱殿提供)
電気計装設備は、グループ会社による製作であり、普段から何かあると飛んできて、
自分たちの設備として愛着をもって対応してくれる関係ができていたのも、早期復旧の要因となた。
地元の土木会社についても同様なことが言える。
電源盤500面、モータ2,500台など膨大な機器の修復など、平均して1日当たり1,000名を半年間投入する大作業となった。
輸送船の航路確保についても、行政の全面的な協力が得られ、
震災45日後に、紙の原料であるチップ船を入港させることができた。(右欄図-7参照)
伝承:最大の課題-世代が変っても伝承される対策を目指して
地震直後の退避について
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震災直後に、早期に帰宅、一部の従業員に工場内高所待機を指示したことから、犠牲者ゼロとすることができた。
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工場内は、津波に対し安全であるとの認識があるものの、指示した以外の従業員も工場内に退避したので、
今後は「高台の自衛隊基地」に退避することとしたが、更に検討を進め、
地震直後の津波襲来も想定し、工場内の高所に退避するケースも避難計画に組み込んでいる。
工場は、津波に耐える基礎と、自衛隊の避難場所(工場地面より約11m高)より高所に避難できる場所がある。
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対策本部は、大津波襲来時にも対応できるよう、大津波警報時には、
工場内の指定した高所に設置することとした。、
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屋外作業などが多い関連企業従業員への指示伝達が十分でなかったので、屋外ページングを増やし、音量についても改善した。
避難計画の伝承について
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今回の震災を経験して多くを学んだが、これを確実に伝承することが難しい。
これまでの経験を反映した訓練計画を作成し、これによる訓練を繰り返してゆく必要があると考えている。
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専門的な観点から、退避の方法などについて必要な経営判断も盛り込み社内の決め事として避難計画書を作成し
、訓練を繰り返すことが伝承の観点でも大事であるとのご意見があった。
復興プロセスについて
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経営トップからの「全マシンを立ち上げること」「発電設備を早期に立ち上げ地域に給電すること」
との明確な方針が示され、復旧・復興に邁進できた。
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早期復旧の観点で、がれきの撤去とユーティティの復旧を優先するなど最適な工程選択に心掛け、
これが効果的であったため、被災した年の11月に工場全面復旧することができた。
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被災後約2ヶ月で自家発電電力約10万世帯分を東北電力に供給開始できた。
八戸市の世帯数が約11万世帯数であることからも、被災地への貢献は大きかったと言える。
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被害の少なかった抄紙機から順次立ち上げたことも、早期全面復旧に寄与した。
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これらの復興プロセスは記録として残されており、
これを活用した復興プロセスのシミュレーション訓練による伝承を検討されては如何かとの意見があった。
津波による被害防止または減災について
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専用バースの埋め立て地の海岸線部分の海抜が約5mであったが、津波はこれを超えていない。
工場前の海岸線前の埋め立て許可が既に下りており、国土交通省による埋め立て事業が進むと、津波被害のリスクが大幅に減少する。
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工場機器で重要なものは、2階に上げたり水密化するなども検討しているが、
多大な経費を要するので経営面での検討も含めて対応してゆく。
金濱講師の結びのご挨拶
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復旧費用も大きく、これを新しい事業展開に廻せたらと思うこともある。
被災地以外の方から見ると5年もたってまだ「たられば」のようなことを思っているのかと考えられるかもしれないが、
復旧費用の償却は続いており、被災の現地にいると5年たった今でも重石として強く感じているというのが現実である。
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最後に、今回の震災復興に関し、多くの方から暖かい励ましとご支援を頂き、短期間で八戸工場の復旧ができたことに感謝いたします。
懇親会
懇親とリラックスした雰囲気での意見交換
映像、説明スライドなどを見ながらの懇親会が始まった。
懇親会の席はお酒も入って、終始、動画などを再度映写しての質疑、コメントなどで盛り上がっった。
ここでの質疑、コメントは報告を補完するものがほとんどだったので、本報告内容にに組入れたが、広範囲にわたる話題について以下に紹介する。
鹿子木基員(1958年化学)前会長によるお話しと乾杯の音頭で懇親会が始まった。
井田榮三さん(1959年応化)八戸工場長の経験として以下のようなお話があった。
4年間工場長をやっていて、もっと津波対策をやっておけばよかったという思いもあるが、
当時は生産設備を造るのに一生懸命だったし、これまで津波には対処できていたとの思いもある。
大塔氏の蔵前工業会青森支部長時の話しで盛り上がった。
これに対し、参加者から、地震対策として建屋や設備の基礎がしっかりできていたので、
工場が大津波に対し防波堤の役割を果たし、犠牲者を出さずに済んだ大きな要因だったとのコメントもあった。
大塔容弘さん(1967年化工)は、今回若干の空席があったため、他の部門にも声をかけ、
唯一参加して頂いた。大学では、セミナー担当の山本幹事とは同じ研究室で、日本原燃の六ケ所村でも一緒だった。
2年前までは蔵前工業会の青森支部長をしていたが、以前は八戸工場勤務の方が支部長で世話になった。
八戸工場勤務されていた同窓会員の名前も出て、講師ともども懐かしいひと時であった。
紙をプラスティックでコーテイングする技術開発などのお話しをする世利氏。
世利卓也さん(1985年有機材料)皆様より若干若い54歳ですと宣言され、
川崎の研究所での津波想定4mでの避難の方法に関連した質問のほか以下のお話があった。
①日本ポリエチレンという三菱化成系の会社で研究開発をやっているが、
入社すぐから三菱製紙の紙にポリエチレンを塗工する開発をやっていた。
我々の扱う製品は原料であるが、紙はポリエチレンを塗工した完成品で、
完成品としての品質を求められるとの貴重な経験をした。
②昨年夏のホームカミングデイで張り切り過ぎてアキレス腱を切ってしまった。
6カ月かかったが完治した。ご心配おかけしたのでご報告にあがった。
百人一首に大津波が出てくる歌があることを説明される鹿子木さん。
鹿子木基員(1958年化学)さんから百人一首に出てくる貞観大地震と想定外のお話しがあった。
清少納言の父、清原元輔の歌「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」は、
愛の永遠をうたったもので、「末の松山」は、どんな大きな波が来ても越せないことから
永遠を表す表現として使われている。この「末の松山」は現在の宮城県多賀城市に史跡として残されており、
869年の貞観大地震による津波が近くの多賀城などを壊滅させたにもかかわらず、
津波はこれを越えなかったことから歌に引用されるようになった。
貞観大地震はこのように歌にも詠まれてる大地震であるにもかかわらず、原発でこれを想定外とした対策はビックリものだ。
(右欄:解説―1参照)
塚田浩司さん(1959年機械)50年間原子力をやってきた。
福島第1原発では想定外との言葉が使われてきたが、女川原発は貞観地震を想定して造られている。
地震直後は3,000人か4,000人の住民の避難場所になったくらいである。貞観地震は1,000年に1回だが、
アメリカの機械学会の友人から原子力発電所の事故確率は百万年に1回だからとても想定外などとは言えない
とメールをもらったことがある。
岡安彰(1963年機械)副会長IHIにいるが相馬工場は高台にあり津波の被害は免れたが、街にいた従業が何人か水害で犠牲になった。
4年生の合宿の後、釜石の田老の万里の長城を見たが、今回の津波で犠牲者が出た。津波が来たら早く逃げろといのが本日の結論か。
ということで一本締めでしめて頂いた。
話が尽きなかったが、集合写真を取り、余韻を残して解散。金濱さんありがとうございました。
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