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第4回セミナー講演概要

佐久電話局での日航機事故対応と教訓
―携帯電話はこうして生まれた―

講師:佐藤 修三氏(1971年電子工学科卒)

JAL123便の墜落事故(1985年8月12日)から今年で30年。
小生はたまたま群馬県御巣鷹山の西隣の長野県佐久地方の電話局の局長をしていた。 その日の晩、場所が特定されていない中ではあるが、報道機関や自衛隊から大量の臨時電話設置の依頼が殺到した。
 約200名の社員(交換手を除くと100名)が夜間にもかかわらず駆けつけ、 また、軽井沢、小諸、上田の近隣電話局からの応援部隊も加わり、夜間に約150本の電話を設置した。 場所も、報道内容に振り回され、臼田町、北相木村、南相木村、小海町、川上村へと広域となった。
郵政省から試験中のショルダーホンの基地局を現場近くに設置することを要望され、 無線部門が現場に近い三国峠に基地局を設置し、自衛隊に50台ほどのショルダーホンを貸出した。 これが現在の携帯電話とつながって行くことになった。 (この年の11月に「ショルダーホン」の商用試験が開始され、NTT内に移動体通信事業部が設置され、 1991年NTT移動通信網㈱に分社、1993年にドコモと改称された。)
NTTでは、本社、信越通信局、長野電気通信部、電話局も含め総力をあげ、 この日から遺体の収容、事故調査等が収束する10月中旬まで約2ヶ月間、対策本部を設置し、 事故現場との通信手段を確保し、救助活動を支援した。
本講演では、事故当日の晩の臨時電話の設置の模様、御巣鷹山の事故現場に どうやって電話を設置したか?衛星通信をどの様に活用したか? どの様に三国峠に臨時の基地局を設置したか?を述べ、最後に災害対策として、 どのような準備が必要かをまとめたものである。
第4回セミナー(2015/12/26)
JAL8119

 (事故前の当該機)

佐藤修三氏(1971年 電子卒)
佐久電話局での
日航機事故対応と教訓
( 携帯電話はこうして生まれた)

第4回セミナー報告
セミナー終了後作成