はじめに

石坂高志氏の思い出

1958年卒 鹿子木 基員

石坂高志さんがコーチしたのは、1953年4月から1954年3月までの1年間だった。 石坂さんは、東京大学第二工学部応用物理学科の4年生(新制大学の一期生)だった。 お父上は最高裁判所判事で、お住まいは洗足だった。
旧制東京高校が、1947年最後の旧制インターハイを制覇したときのマネジャーで、 チームのまとめ役であったので、全国制覇メンバーの猛練習振りや チームメートひとり一人についてプロフィルを良く聞かされた。 また、豊多摩高校と合同練習をされたそうで、とくに教育大学の吉井監督の秘蔵っ子、 松尾選手(日本鋼管の名選手)の練習姿勢を良く話題にされた。 松尾選手については、畑先生もしばしば絶賛されたし、生のプレーを見る 機会も多かったから、 印象が強く残った。私と同年配の浅野さんは豊多摩高校から教育大を出て三菱重工に入ったので、 私とも少し交流があり、会えば親しい仲間である。
大橋先輩(1953卒)は、その全国制覇チームのセンターだった。 MITに留学したため、東工大でのバスケ活動は限られたものになったが、 後に三菱重工の航空機部門で活躍されたので、1968年卒の岡さん(三菱重工)と絆が繋がっている。
石坂さんは、松原先輩(1953卒)と幼稚園時代から親交があったので、須藤さんに推薦し、 コーチをお願いすることになったと聞いた。石坂さんは、東大卒業後、 三菱重工から三菱自動車にご勤務、愛知県のミニバスケットの振興に尽力された。
当時の練習コートは、アウトドアで、床はコンクリートだった。 練習日は水曜日と土曜日の週二日。部員は20名弱いたが、学費稼ぎの家庭教師などの予定があり、 練習に出るのは10人に満たない場合もあった。 石坂さんは、その練習及び試合には、必ず来て指導してくださった。 日頃練習に参加する部員と秋のリーグ戦を戦う部員とは必ずしも一致しなかった。 私は1年生だった。石坂さんは春夏の休暇を利用して栃木県の氏家高校の男女チームを教えていたので、 東工大の合宿練習を氏家でするようになった。また、そのコーチの役目は私に引き継がれた。話を本題に戻す。
石坂さんは、雰囲気作りが上手で、「君らの実力を出せば、負けるはずがない」といつも言われた。 相手のあることだから、うまくいかないこともある、その際の、「全く!惜しかったなあ!」という言い方がとても見事だった。 練習や試合中以外の会話が、素晴らしく、楽しく、沢山のことを教えられた。
圧巻はシーズンの終わり、石坂さんの送別を兼ねた納会の席上、出席した一人ひとりに 「君はこういう特徴がある、ボクは感心したよ」と言われた。 私には「初めに君にあったとき、既にうまかったから、これ以上にはならないと思ったが、この予想は全く外れたよ」 と最高のお褒めの言葉を頂いた。私は石坂さんから頂いた言葉を一生大切にしている。
当時の写真を探したら、ゲーム中に指揮を執る石坂さんの写真があった。できれば、この文と一緒に載せたい。 以上
石坂さん写真

指揮を執る石坂コーチ
(対東大戦、国民体育館)