はじめに

資料から読み解く篭球部の創設期

( 図の配置などは、85年史web版と異なります。)

横山さん写真

1969年卒横山 功一

バスケットボール部のOB名簿を見ると一番古い方は持田さんで、卒業年は1929年となっており、 部の歴史はかなり長いことがうかがえるが、「正式には部がいつ誕生したのか、そのころの様子はどんなだったのであろうか」 というのは、皆の関心事であった。
そこで、いろいろ資料を探し、推測するうちに、 [東工大学友会十年史(昭和四-十四年)] (1939年)1) に「籠球部」の紹介文があり、創部の時期やその後10年間の活動の様子が描かれていることが分かった。 文末に(畑記)とあることから、執筆者は畑敏雄先生(1940年卒)と思われる。
それによると、 創部は、1929(昭和4)年1月であったこと、 そしてそれ以前は、 蹴球部の中の愛好者のクラブとして活動していたとなっている(ちなみに大学への昇格が1929 (昭和4)年4月であったことから、 創部はその直前の東京高等工業学校時代であった)。
(1)「部としての籠球部の歴史は大學昇格の日より僅かに早く昭和四年一月に始まる。 それまで蹴球部内に成長してきた愛好者のクラブが一月の評議会の議決を経て正式に籠球部に昇格したのである。」 [東工大学友会十年史(昭和四-十四年)](163-165ページ)
創部についての確かな情報が得られ、 今年(2013年)で84年の歴史 があるらしいことが分かった。 これで疑問は解消されたように思われたのだが、歴史プロジェクトが進行するにしたがって いろいろな方々から情報や資料が提供され、畑先生の文章を補強することができるようになった。 その中でも、直接創部に係る情報としては、バスケットボール部の部報第3号(1959(昭和34)年3月発行) 2) (写真-1)に小島武先生(1930(昭和5)年電気科卒)が書かれている 「蔵前篭球部創設時代の思い出」という一文があり、 1927(昭和2)年から1959(昭和4)年ころの様子が紹介されている。
部報写真

(写真-1 部報(第2号~4号、第6~8号)
(杉田啓氏[1961年卒]提供)

(2)創部に関しては、「ちなみに、籠球部は昭和3年(1928年)学友会の独立の一部として認められ・・・」2)とあり、 学友会十年史の畑先生の記述よりも1年古いことになる。
当事者であった小島先生のこの記述の方が他の資料との整合があり、そうすると、 1958 (昭和3)年創部で今年(2013)年で85年の歴史 があることになる。
ここまでにいろいろな情報や資料が集まったので、それらを基に創部前後の部の様子を詳しく知りたいと思い、 集まったいろいろな資料を眺めてみた。
(3)1927年(昭和2年)、陸上競技部の中に部屋住みをしていた篭球チームに多数の新人が入ってきて、 自力で屋外コートを新設し練習に励み、9月に明治神宮篭球大会関東予選に参加したが、六中に惜敗2)
(4)あくる1928年(昭和3年)2月全日本選手権関東予選に初めて出場。第3回戦で明大に勝利。2)
(5) 1928年の卒業アルバム3)アウトドアコートでの國學院とのゲーム写真がある。 アウトドアであったこと、ユニフォーム姿、このころの対戦相手が、1校であるが、分かった。
1930年アルバム
杉田新之丞氏(杉田啓氏1961年卒の父君>の1930年卒業アルバム
(7)1929年の卒業アルバム4)に学友会の一つの部として籠球部の名前が見られる。 卒業アルバムはたぶん1929.3であろうから、正式に籠球部に昇格した評議会の議決(1929年1月)の時期が近いことを考えると、 創部は昭和3年とする小島武先生の記述2)が整合する。
(8)1930年に東京高等工業学校から移行した東京工業大学専門部の機械科を卒業した杉田新之丞氏 (杉田啓氏(1961年卒)の父君)の卒業アルバム5)(革表紙で厚さ5cmくらいのずっしりと重い立派なもので、 表紙には「KURAMAE」「1930」、中表紙には「東京工業大学専門部写真帖」とある)にある 籠球部の写真(口絵写真)から、 部長は木下正雄教授(物理学教室5))であったこと、またページ右下にある写真(写真-2)には、 第五回明治神宮篭球大会東京府予選出場監督選手(計16名)の名前とポジションが写っている。
明治神宮篭球大会

(写真-2:第5回明治神宮篭球大会東京府予選出場監督・選手ポジション
1930年卒業アルバム口絵写真から)

wikipediaによると「明治神宮競技大会は、 日本で1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)にかけ14回にわたって行われた総合競技大会。 現在の国民体育大会を創設するにあたって影響を与えた。第5回大会は、1929年(昭和4年)開催。」 となっているので、写真に写っている、第五回明治神宮篭球大会は1929年開催と考えられる。
また、このメンバーが第二回関東高専リーグの出場選手でもあると書かれていて、この時点では大学リーグではなく、 高専リーグだったことが分かる。
ちなみにOB会の会員名簿の一番古い方は持田勇次さん(1929)であるが、名前はこの写真にはない。 次に古い岡田修一さん(1930)の名前はあり、(電三)となっている。 また1931年卒の石川章一先生は(電二)となっており、この写真が1929年のものであり、 それぞれ東京工業大学附属工学専門部の電気科三年生、二年生と推測される。
(9)この当時の公式試合については、[東工大学友会十年史]の(1)の畑敏雄先生の文章1)に、 「当時の主な目標は全日本選手權大會、全国高専大會等の如き勿論であらうが、主として秋の関東専門學校リーグに全力が注がれていた。 しかし之れは蔵前が大學となると共に退いて、代つて昭和六年関東大學リーグ(二部)の一員となつた。」と記述されている。
なお、関東大学バスケットボール連盟【リーグ変遷略年表】7)(写真-3)を見ると、関東大學リーグの発足は1933(昭和8)年であり、 1931(昭和6)年時点では、全日本学生篭球連盟となっている。 ただし、 【リーグ加盟校変遷年表】7) では、1923(大正13)年から連盟変更とは異なって連続的に書かれている。
リーグ戦変遷略年表

(写真-3 関東大学バスケットボール連盟リーグ戦変遷略年表)

(10)関東大學リーグへの加盟は大学昇格から2年後の1931(昭和6)年。 【リーグ加盟校変遷年表】では、1931(昭和6)年から3年間に【東工大】の名前が見られる。 ちなみに、この時の2部のチームは東農大、千葉医大、中央大と東工大の4校であった。 また1部は、立教大、早稲田大、慶応大、明治大、帝国大、商大であった。
しかし残念なことに、1934(昭和9)年には活動不活発によりリーグ戦に参加せず[東工大学友会十年史]1)。 これと対応するように、OB名簿には1934~37年の卒業生がいない。
(11)1930(昭和5)年の卒業アルバム4)にある写真には、ユニフォームの胸にKODAIやKURAMAE(東京高等工業学校時代の愛称)の文字が読み取れる。 東京高等工業学校の籠球部KURAMAEと東工大籠球部KODAIが1ページの写真に見られるが、 「官立東京工業大学の発足に伴い、従来の東京高等工業学校および附設の工業教員養成所はそれぞれ東京工業大学附属工学専門部、 大学附属工業教員養成所として残存し、在校生卒業の1931 年3月をもって廃止となった。」 [130年史6) p89]ということから、東京高等工業学校は大学発足とともに東工大専門部となったので、 籠球部は形の上では東工大籠球部へ切り替わったことになる。 大学の初めての入学生は1929年4月、初めての卒業生は1932年3月であった。
(12)1938(昭和13)年関東大學リーグに復帰した[東工大学友会十年史p164]となっているが、【リーグ加盟校変遷年表】には記載がない。
(13)東京高等工業学校が東工大専門部となり、工業大学がスタートした時の様子を学生の目で記したのが出川雄二郎さん (1930機械卒、1933電気卒)による 「一学生の出たらめある記」 [東工大70年記念誌](1951年)8)であり、 その中に他の部とともにバスケットボール部の様子が記されている。
(14)戦後、部長や監督を務められた須藤六郎さんの名前は、部の名簿に見出すことができるが、 旧制水戸高校時代インターハイで大活躍した。須藤六郎さんが大岡山で学んだ頃は、戦時中でバスケットをする余裕がない時代だった。 畑敏雄さんの想い出の記に、学内の有志を集めてバスケットをしたという記載がある。
(15)創部に関する貴重な情報は、バスケットボール部の「部報」(資料2、写真-1)からも得られると(1)で述べたが、 このプロジェクトが進行する中で杉田啓氏(1961卒)から提供いただいた「東京工業大学篭球部部報」 (第2 号~4 号、6号~第8 号)は今から50~60年も前の昭和30年代の部の様子が分かる貴重な史料である。 手書き・ガリ版刷り・わら半紙のような紙質で茶色に変色し劣化が進んでいる30~50ページの冊子は手作りの温もりが感じられる。 現役を中心に、部長監督コーチOBの方々からの文章も加わり、原稿集めに苦労したこと、 発行の遅れのお詫びもあり、バスケットボール部の歴史資料となっている。
 
資料
(2) 東京工業大学篭球部部報第3号(昭和34年3月発行)
(3) 1928年卒業アルバム
(4) 1929年卒業アルバム
(5) 1930年卒業アルバム
(6) 東京工業大学130年史(2011年)
(7) 関東大学バスケットボール連盟80年の歩み
(8) 東京工業大学70年記念誌(1951年)
(9)東京工業大学篭球部部報、第2 号(昭和33年2月)~4 号、6号~第8 号(昭和40年)