はじめに

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2.研究者を目指した経緯~卒業後の「モラトリアム」経験!~

ある「場所」が魅力的で、はっきりしたアイデンティティを持っていると、そこに居る、住む、所属するということがその人のアイデンティティの一部になります。「場所のアイデンティティ」と言いますが、その地域やその場所が持っているアイデンティティが人間のアイデンティティに影響を与えるのです。例えば、東工大のバスケットボール部という場のアイデンティティは何でしょう?そしてそこに所属したということが個人のアイデンティティにどう影響するのでしょう。

さて、ここで私個人の「場所のアイデンティティ」をご紹介します。

私は名古屋生まれで5人兄弟の真ん中でした。名古屋という場所で、5人男ばかりの兄弟の3番目の家庭にあった、ということも自分自身のアイデンティティです。高校ではバスケット部のキャプテンをしていました。東工大に入学して暫くしてから学園紛争で正門がロックアウトされてしまいました。バスケット部に入り合宿も経験しました。そして、建築学科に所属しました。このような高校、大学で自分が居た場所によって自分が造られてきたのだと思っております。4年生のときは茶谷正洋先生の研究室で卒論はテクスチャーの視覚に関する研究でした。テクスチャーというのは材料などの表面の質です。

ここからは、何故私が「研究」という道を選んだか?というお話をします。

私は1972年に卒業しました。当時は景気が大変良く、就職先には困らなかったのですが、私自身何をしたら良いのかあまり確信がもてず、いわゆる「モラトリアム」状態でした。「モラトリアム」とは「ある歳になったらこうしなければいけないという社会的常識に従わないで決定を先延ばしする」状態です。通常は大学を卒業したら就職するのが一般的でしたが、私は就職活動をしませんでした。

さてどうしよう?というときに、工学部長も経験された有名な建築家でもありました清家清先生から、「長津田の新しいキャンパスに80周年記念館を設計するので手伝って欲しい」とのお話があり、喜んでお手伝いすることになりました。当時の学長は建築学科出身の加藤六美先生でその設計案を大変面白がってくださいました。敷地は今のすずかけ台キャンパスです。清家先生はキャンパスに入るには「門」が必要とお考えになりました。キャンパスの入り口の両側には山がふたつあり、そこに巨大なブリッジを架ける形で門型のデザインで鉄骨造りの建物を作ろうとしました。1年半をかけて設計して、実施設計に入り正に施工という時期に学長が交代しました。そして、新学長は「こんな使いにくいものはダメ」と突然計画は中止になり、私は失職してしまいました。

  再度路頭に迷っていたのですが、今度は大学院を受験しようと思い立ちました。夏前のことです。その結果、無事に合格しました。大学院受験を終えてから、私は11月から5ヶ月間入学するまで、ソ連から入り西欧諸国や北アフリカのモロッコ等でひとり旅を経験しました。そのとき何事も予定通りには行かないものだということを痛感しました。

  修士課程を終え、またまた「モラトリアム」で進路に迷いましたが、とりあえず博士課程への進学することにしました。進学直後、清家先生から、「今度Thiel先生が東工大で教えるから手伝って欲しい」とのお話があり、授業の準備などの手伝いをしました。先ほどお話した知覚フィルターモデルの発案者です。この頃はまだ自分は研究者になりたいとは思っておらず、建築のデザインでいくつかの住宅などを設計しておりました。

ところが、Thiel先生の影響でしょうか、私は有名な建築家がいる大学でデザインの勉強をするため、アメリカへ留学したいと思うようになりました。この先生の推薦もあり、奨学金もいただけることになりました。当時、ペンシルベニア大学にはデザインの分野で最先端の先生がいました。また、ウィスコンシン大学は環境心理。行動学の研究面では中心的な大学でした。私は両方に合格し、どちらに行こうか迷ったのですが、ペンシルベニア大学には「1年待って欲しい」と手紙を書きました。またモラトリアム癖が出て合格の資格をキープしておくことにしたのです。まずはウィスコンシン大学で1年間研究者として面白かったら続ければよいし、詰まらなかったらペンシルベニア大学に移ろうと考えたのです。

大学はミルウォーキーにあり、大変のんびりした場所です。そこでアメリカの環境心理・行動学の分野のトップの研究者と話す内に、次第に建築デザイナーとしてやっていくよりも、この分野の研究が面白くなってきました。そこで、ウィスコンシン大学での研究を1年延長し、建築分野の行動研究のコースで修士号を得て帰国しました。

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環境心理行動学の権威Thiel先生(左)との出会い

1980年に帰国後、博士課程に戻り、中国の調査に携わりました。この辺りは省略します。博士課程が終わって、また就職せずに1年間過ごしたあと、建築材料学の助手に就きました。私はテクスチャーの視覚的粗さの研究で博士号を取得しましたので、材料の仕上げ材が専門の小野英哲先生の助手になったのです。そこで私は大変勉強になる経験をしました。というのは、小野先生は研究の実験装置を作るのが上手で、その装置を作ってデータを測定されていました。自分で作成した装置で得られたデータは絶対オリジナルです。研究の武器ともいえるモノを自分で作ってやる、ということをこの3年間で教わりました。

1986年に神戸大学の教養部で図学の教師の求人があり着任しました。そこでは学生がいない研究室だったのです。今までは面倒な学生指導が大変だったので、初めは「ひとりで研究できるのは素晴らしい環境だ」と思っていましたが、やはりチョット寂しく感じました。そこで私は小野先生に見習って一人で実験装置を作りました。図学教室というのは建築と機械の教師がいるのです。機械の先生にはモノを作る金工室という部屋を持っています。そこには旋盤やボール盤などがあり、それを使わせてもらって実験装置を自作してオリジナルな研究をしました。

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自作した実験装置

図学というのは、現在でも紙に手書きで書きますが、当時から神戸大学では半分くらいはコンピュータグラフィックス(CG)の世界でした。赴任する際に、コンピュータに詳しいか訊かれ、実際は全く知らなかったのですが、「何とかなります」と言って着任しました。そのため、CGのプログラミングを俄か勉強で覚えました。たまたま隣の研究室が情報科学の先生がおられ、わからないことがあれば直ぐに訊くことができました。教養部というところに勤めたメリットでした。

その後工学部に移り、9年間を神戸大学で過ごしたのち、1995年に東工大に戻りました。来春定年を迎え、また今年の学会賞をいただいたのを機に、神戸大学時代を含め、この間に大野研究室から巣立った学生数をまとめてみました。来年3月まで含めると101人になります。その内女性が40人、ドクターが14人、留学生が11人でした。この間にも建築作品のデザインはリハビリテーション的に続けておりました。

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