はじめに

第6回セミナー(2016年12月13日)

1.池田敏雄氏の略歴—前編(富士通入社まで—バスケットを中心に)

大正12年(1923年)  東両国で薬種商の長男として誕生。4歳上に姉がいた。
父とはあまり反りが合わず、母の手ひとつで育てられた。
昭和5年(1930年)  江東小学校入学。
内気な性格だったが、得意なものがあった。数学であった。ずば抜けた才能で、難しい解析問題を解いては母を喜ばせた。
級友に大相撲の立浪親方の息子がおり、相撲も強かった。
昭和11年(1936年)  東京市立第一中学校(現都立九段高校)入学。
バスケット部に入部。学校には当時としては珍しく、屋内プール、バスケットのインドアコートがあった。長身と強いバネを生かした抜群の選手である一方、作戦をたててチームをシステマチックにリードするカリスマ的存在だった。
昭和15年(1940年)  全国中等学校籠球選手権大会で優勝。全試合ダブルスコアで圧勝。
数学の才能はさらに磨かれ、英才教育を受けた
昭和16年(1941年)  旧制浦和高校(現埼玉大学)入学。
バスケット部に入部。
囲碁、クラシック音楽にも凝るようになる。
昭和17年(1942年)  インターハイでセンターとして出場し、優勝。1回戦から3回戦までダブルスコア。準決勝は甲南高校を相手に69対37で勝利。決勝は成蹊高校を相手に54対32だった。
昭和18年(1943年) 10月 東京工業大学電気工学科入学。
バスケット部に入部 (昭和18~20年はリーグ戦中止)。
昭和21年(1946年) 春  リーグ戦再開に尽力(学連委員)。
春のリーグ戦で主将として出場。1部8チーム中6位。
同年9月 大学卒業 秋のリーグ戦では審判。
チームの監督として采配。1部最下位6位。
昭和21年(1946年)12月  富士通信機製造(現富士通)入社。
バスケット部創設。
昭和23年(1948年)  富士通チームは国体で3位。その際、センターとして出した1試合65点という個人得点記録はいまだに破られていない。

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